2012年12月5日水曜日

相模大野駅の昔の駅名をご存知ですか?

弊社事務所がある小田急線相模大野駅が作られたのは昭和13年(1938年)
のこと。駅名は「通信学校駅」でした。
通信学校といっても通信制高校のことではなく、陸軍通信科の将兵を養成する
学校です。

当時、座間市と相模原市はその全域が軍都として開発されていました。
現在相模原駅北口にある米軍補給廠は陸軍の兵器工場であり、座間キャンプは
陸軍士官学校であり、国立相模原病院は野戦病院であり、JR横浜線は軍需物資
の輸送のために作られました。
国道16号線の淵野辺付近は軍用機が離発着できる幅員で作られました。
相模湖ダムは軍都の電力需要をまかなう為に軍事目的で建設されました。
中央区にある「星が丘」は陸軍将校の住宅地として開発されたので、陸軍の徽
章である「星」の字が町名にあてられました。

昭和13年、陸軍士官学校を昭和天皇が訪れることとなった際、横浜線原町田駅
から相武台へ至る直線道路が建設されました。
この道は現在でも「行幸道路」と呼ばれ、幹線道路として重要です。
その当時、現在の相武台前駅の名称は「士官学校前駅」でした。

そもそも相武台という地名は昭和天皇が命名しました。
「相」という字には相模の国という意味のほかに「分析する・判断する」という
意味もあります。(例えば「相場」「手相」などのような)
つまり、「武を練る場所」という意味が相武台という地名に込められています。

因縁めいた話ですが、この地は古くから「武を練る」場所でした。
鎌倉幕府は武士による政権でしたが、これをささえたのは相模の国の豪族達で、
まさにここで武を練っていました。たとえば源頼朝を挙兵時から幕府創設後まで
支えた佐々木氏の所領が現在の座間付近にあったという話があります。

古くは8世紀末、蝦夷討伐へ向かう軍団の根拠地ともなっていました。
座間は古くは「夷参(いさま)」と呼ばれていたらしく、その地名に宛てられた
字は「蝦夷に向かう」という意味にとれます。

ここに駅館が置かれ、相模川の渡河を終えた兵士達が勝坂の湧き水でのどをいや
したかも。
古代の座間は、京から下総方面へ向かう東海道から群馬方面(東山道)へ分岐
する場所でした。
つまり、東国の兵を集め、武を練るのにちょうどよい位置にありました。

そもそも「相模」という国名は古くは「相武(さがむ)」と表記されていました。
そう言えば神奈川県は基地だらけですが、歴史的には昔から「武」に関係する
土地柄です。
今も昔も「相武の国」が軍都であったというのは単なる偶然なのでしょうか。


(日野 孝次朗)