2011年10月26日水曜日

シルクロードの東端

 「日本」という呼称が記された墓誌が中国の西安で見つかったという報道がありました。

 この墓誌は、日本と百済の連合軍、唐と新羅連合軍が戦った、白村江の戦い(663)の頃に作られたものなのだそうです。この頃は、先の戦争の影響もあって、日本と朝鮮半島の関係は悪化していて、日本と唐との交流は主に東シナ海を越えて長江河口に至るルートが使われていました。

東シナ海の夕日 
          

 東シナ海を抜け、長江を100キロほど遡ったところに太倉という街があります。ここは古くからの港町で日本からの使節や各国の交易で賑わった町といわれています。いうなれば、シルクロードのユーラシア大陸側の東端ということもできるかもしれません。明の時代には鄭和がこの港から大航海に旅立っていきました。

 現代の太倉港は、上海まで50キロほどという地の利を生かして、大型船が接岸できる埠頭が整備され、ガントリークレーンが休みなく荷役をしている貨物港として発展しています。日本との間にも定期貨物航路があり、比較的短時間に貨物の輸送をすることができるようになっています。

太倉港のコンテナ埠頭 
                

 数年前に下関港から太倉港まで船で渡る経験をしましたが、数万トンもある大型船でも対馬海流を横切るには大きく揺れるのですから、きっと想像を絶するような命がけの旅路だったに違いありません。