2009年4月28日火曜日

境界線ギリギリの常識と非常識

◎境界に接する建築物に関する法的判断
ビルが林立する商業地域などでは土地の境界線ギリギリにビルが建築されていることがしばしばあります。私は建築についての知識が少なく、この分野への関心が薄いこともあって、これまでほとんど
気にしなかったのですが、ある方から相談を受けたことをきっかけに調べてみると、どうも納得の行かない問題があることに気がつきました。境界線ギリギリ、つまり境界線のほとんど真上にあたる位置に建物の外壁があったり、またはギリギリでなくとも境界線から4,5センチしか離れていなかったりします。これでは隣地の所有者が建築する際には、工事の際の足場のスペース等を考慮して本来よりも境界線から後退した位置に建築せざるを得ないということになり、先に建築した方がより広く敷地を利用できる結果となります。
建物と境界線の関係については民法第234条で語られています。以下に抜粋します。

(境界線付近の建築の制限)
第二百三十四条  建物を築造するには、境界線から五十センチメートル以上の距離を保たなければならない。
2  前項の規定に違反して建築をしようとする者があるときは、隣地の所有者は、その建築を中止させ、又は変更させることができる。ただし、建築に着手した時から一年を経過し、又はその建物が完成した後は、損害賠償の請求のみをすることができる。

民法の規定によれば、建築の際には境界線から50?以上の距離をおかなければなりません。ところが一定の要件を満たせば境界線に接して建築できるということが建築基準法で定められています。
以下抜粋

(隣地境界線に接する外壁)
第六十五条  防火地域又は準防火地域内にある建築物で、外壁が耐火構造のものについては、その外壁を隣地境界線に接して設けることができる。

この条文の意味は、民法に対する特則であると解釈されており、平成元年の最高裁判決でもそのような解釈がなされていますので、防火又は準防火地域の耐火構造外壁であれば境界線に接して建築できるとされています。これは私が問い合わせた建築行政では共通して言われたことで、「法律も判例もあるからぎりぎりでもよいのだ」、という趣旨の回答が多く見られました。実際のところ、このような境界線ギリギリの建築でも建築確認がされているのが現状です。つまり、境界線ギリギリというのは建築業界としては非常識ではないということのようです。

◎常識として考えたら
だからといって、境界線上のぎりぎりに外壁を建築するような方法が一般常識の範囲内であるとは思えません。この問題の当事者は建築業者や行政ではなく土地の所有であると思いますから、土地所有者の常識こそ重視されるべきです。
そもそも土地の境界線は何のためにあるのでしょうか。土地所有者の所有権の範囲を定めるための線だと私は思うのですが、もしそうであるなら、境界線はその境界線を共有する二人の所有者にとって平等の意義を持っているはずです。先に建物を建てた者はより広く敷地を利用でき、後から建築した者はより小さくしか敷地を利用できないということなら、境界線の実質的な意味が薄れてしまいます。その線の範囲で合理的に予想される利用が保証されることが財産権の保護にとって重要であるはずなのに、現在の解釈では、たまたま先に建てた方が有利になってしまいます。
しかしながら、実際に商業地域を眺めて見ますと、境界線のギリギリに建築しているビルは多くはありません。通常は境界線から20?くらいは離れています。どうしてかと言えば、将来外壁を改装したりするときに隣地を使用しなければならず、その際に隣地所有者が同意してくれなければかえってやっかいな問題になってしまう恐れがあるからでしょうか。いくら法律的に「できる」と言われたって、隣地所有者にとって非常識であるならいろいろな意味でもめてしまいます。やられた方は、機会があれば嫌がらせしてやろうと思うかもしれません。相手が法律を盾に取るなら、こっちも所有権を盾にとって隣地に一切協力しないぞと思うのは人情というものです。そういう将来のトラブルを避けるのであれば、やはり常識としてある程度の距離をおいて建築するのが当然です。
こういう場合に、「常識と法律には隔たりがあるのだ」と考えるのはおかしいことで、法律解釈が非常識であるということは本来あってはならないことのはずです。

◎法律ではなく解釈が間違っているのでは?
建築基準法や最高裁判例自体が間違っているということではなく、これらの法律や判例についての解釈が間違っていると思われる部分があります。 最高裁は建築基準法65条が民法の特則であると判断していますが、所有権に内在する固有の権利についてまでは語っていません。所有権が存在する以上最低限確保されるべき固有の利益というものがあってもよいはずです。
たとえば憲法で「戦力は、これを保持しない」と書いてありますが、それでも自衛隊が存在する根拠として「国家は自衛する固有の権利を持っている」というような解釈が聞かれます。言い換えれば、たとえ憲法であろうとも、「当たり前」にはかなわない、ということです。
「法律や判例があるから非常識でもなんでも構わない、やってしまえ」という発想事態に問題があるのではないでしょうか。たとえ法律で「接して建築できる」と書いてあっても、常識として最低限確保すべき距離を確保しなくてもよい、ということにはならないと思うのです。建築行政としては、越境さえしていなければ建築確認は出すようですが、だからといって境界線ギリギリで私法上も問題が無いかのような発想を持つことは好ましくありません。境界線ギリギリのケースでは隣地所有者から一筆とらせるような行政指導が多いとも聞きますが、これはあくまで指導、つまりお願いと同程度のものであって、一筆取らなくともそれですんでしまうことに変わりは無いです。私は、隣地所有者が建築する利益を不当に侵害するほどに境界線に接して建築することは不法行為にあたりうるものだと思います。

◎責任は誰にある?
この問題の難しい部分は、このような解釈が疑問をもたれずにまかりとおっていて、誰に責任があるのかがよくわからないということです。

図説(←クリック)

たとえばある区画において最初にAが境界線ギリギリで建築し、そのとなりの所有者Bは仕方がないのでAビルから距離を離しつつ、その反対どなりのCの敷地の境界線ギリギリいっぱいに建築し、Cが建築するときには本来建築できたであろう敷地が一回り小さくなってしまうという事がありえます。同じ面積の土地を手に入れたのに、Aの建物が一番大きく、Bの建物は本来予想される大きさを確保でき、Cの建物が一番小さくなります。建築の順序次第でこのような不公平が生まれます。この場合は、Cから見ればBが悪いのですが、Bは加害者でもあるし被害者でもあります。一番悪いのは最初に建築したAかもしれません。Aが境界線から常識的に距離をおいて建築していればこのような不公平は生じませんでしたし、将来紛争が起きることもなかったでしょう。それなのにこのような建築でも問題ないとされているとしたら誰に責任があるのでしょう。これが問題無いことだと考えること自体が問題ではないでしょうか。

◎問題が無いと思い込む姿勢ことが問題かも
この悪循環は行政の基本的態度に責任があるのではないかという気がします。行政という存在は一般的に法律を厳格に解釈すべきであると考えられる傾向があります。これは権力作用が国民生活に無用な影響を与えないようにという意図で、そうすべきだと思うのですが、どうやら杓子定規に判断することが行政として当然のことであるかのように思われているフシがあります。よくある法律偏重主義ですが、国民の自由を制限する際に権力行使の範囲を厳格に解釈するのは当然のこととしても、民民の問題において法律を根拠として、一方に有利な説を流布したり、紛争になりそうな建築なのに黙認してしまうといったことはなんとかしなければならないことだと思います。私が問い合わせた行政庁のどこにきいても、法律と判例があるからギリギリであっても違法ではないとか、損害賠償は認められないだろうと聞かされました。もっともこのような問題について行政担当者が瞬間的に適切に対応することは非常に難しいし、首をつっこんで責任を取らされたくないと思う気持ちも、行政の立場としてある程度は仕方がないことだと思います。しかし、建築主が建築を強行してしまえば一般市民は是正する機会が思い当たらないでしょうから、この問題を改善するには、なんらかの形で行政に注目していただく必要があるのではないかと思います。
建築主にしてみれば、プロに設計を依頼し、行政が建築確認をおろしたのだから文句を言われたくはないと思うのが普通です。それでも冷静に考えれば、隣地スレスレに建築するのは非常識だとわかります。でもプロが大丈夫だと言ったし、行政もお墨付きを与えた。それを信じすぎたのが悪いのだということなら、一般市民は専門家や行政に対してあまり信用しない方がよいということになってしまうでしょう。